ジャック・ハルバスタムを藝大に迎えて──クィアな時間と場所からトランス*・アナーキテクチャーへ
- Sero
- 1 日前
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2025年12月にジャック・ハルバスタムが来日し、東京藝術大学で特別講義とシンポジウムが開催された。ハルバスタムは同志社大学でも講演会を行ったが、私は藝大にて清水知子先生の企画によって行われた、シンポジウム「かつて、あるクィアな時間に/Once Upon a Queer Time」と講義に参加させていただいた(1)。参加する前は、2025年12月に日本語版が刊行された、ハルバスタムの著書『クィアな時間と場所で』(2)に関する話が中心になるかと思っていたが、数年前からハルバスタムの文章に頻出するようになった「アナーキテクチャー」(anarchitecture)、とりわけ「トランス*・アナーキテクチャー」(trans* anarchitecure)が講義の主要な観点となっており、『クィアな時間と場所で』はシンポジウムのテーマになっていた。これは、『クィアな時間と場所で』が出版されてから20年以上の時間が経っていることを考えれば、おかしいことではない。じっさい近年の状況もふまえれば、ハルバスタムが熱意を持って話していた「アナーキテクチャー」について見ていく必要があると思う。そこでこのエッセイでは、ハルバスタムのトランス*・アナーキテクチャーをめぐる議論について紹介し、それについて考察してみたい。
まずは、ハルバスタムの『クィアな時間と場所で』がいまだに重要であることを指摘したい。また、今回の東京藝術大学における講義やシンポジウムにおいて、それがどのように今の議論に結び付いているのかについても考えたい。上記でも触れたように東京藝術大学において行われた「かつて、あるクィアな時間に/Once Upon a Queer Time」というシンポジウムでは、『クィアな時間と場所で』が出版されてからのこの20年を振り返りながら、資本主義と監視が深刻化し反トランス的なポリティクスが再燃する現在において、トランスジェンダーの身体やサブカルチャーの実践を手がかりに「クィアな時間/空間」をいかに再思考できるかについて語った。聞き手としての第一印象は、ハルバスタムの理論における美術の役割がだんだん変わってきているということだ。例えば、キアン・ウィリアムズ(Kiyan Williams)(3)をはじめとするアーティストの作品と、「抽象化」(abstraction)によってトランス*身体を表象する手法をめぐる議論(これは『クィアな時間と場所で』でもみられる)が接続して展開していることはその一例である。ここで何が新しいかというと、ひび、割れ目や断片化といった要素が強調されていることが挙げられる。ハルバスタムが提示している建築的な色が強い「解体の文法」(grammars of unbuilding)という概念がキアン・ウィリアムズの作品においてよく見られるのであり、実際、作品の説明文等にその概念が引用されている(4)。つまり、最近の美術との関わり方において、ハルバスタムの理論と美術作品との新たな関わり合い、言い換えれば建築、解体、取り壊し、建造、アナーキテクチャーといった語彙を通した新たな視点が生まれているといえる。
その新たな視点について、ハルバスタムが解説したのは、実はシンポジウムの一日前の特別講義「Nothing Works: Anarchitecture After Everything」(何も機能しない── 全ての後のアナーキテクチャー)だった。この講義は直前まで公開される予定はなかったが、ハルバスタムの意向によって、授業の一環としての対面参加に加え、オンラインで一般公開されることになった。この講義は、ハルバスタムがここ10年ぐらい取り組んでいる近刊『Anarchitecture After Everything: A Trans Manifesto』(5)を元に行われた。ここでは講義について深入りする前に、その背景について少し説明したい。
アナーキテクチャーという概念を考えるにあたり、より広い意味で、建築的な視点を明確に取り入れたハルバスタムの初期の議論として、2018年の二つの文献を思い出したい。一つは、『Trans*: A quick and quirky account of gender variability』(6)である。本書では、歴史におけるトランス*性、トランス*身体の表象、身体化、米国におけるトランス*の子供をめぐる言説、世代間の諸問題、親類関係(kinship)やトランス*・フェミニズムなどさまざまな視点から、「トランス*」におけるアステリスクの重要性と潜在的な可能性について述べられている。このエッセイにおいても、ほとんどの場合アステリスクが用いられているため、ここでハルバスタムがアステリスクの機能と意味を説明している文章を引用しておきたい。
…アスタリスクはトランジティビティ(移行性)の意味を変容させる。それは、トランジションを、到達点や最終的な形態、特定のかたち、あるいは欲望やアイデンティティの確立された配置との関係において位置づけることを拒むからである。アスタリスクは診断の確実性を先延ばしにし、あるジェンダー・ヴァリアント(gender-variant)な形態がどのような意味をもつのかを、あらかじめ知っているという感覚を遠ざける。そしておそらく最も重要なのは、アスタリスクが、トランス*の人々を自らのカテゴリー化の作者とする点である(7)。
建築的な視点に議論を引き戻すと、手術、身体性や身体化に関する本書の第二章「Making Trans* Bodies」(トランス*身体をつくる)でそのような視点が取り入れられている。ハルバスタムは、ルーカス・クロフォード(Lucas Crawford)のトランス建築をめぐる議論(8)を取り上げ、トランス・スタディーズにおける身体化は、自分の肉体を一つの「家」として考えるというよりも(9)、より流動的で「建築的なプロジェクト」としてみなされるようになってきていると主張している。また身体は住居的で家庭的なものというよりアーカイヴとして体験され、身体化は一連の短期滞在地(“stop-over”)からなるものであるという。「家」という概念は、常に資本主義的な意味内容を帯びると同時に、トランス*身体や非規範的なジェンダーを排除する制度的基盤の上に成立してきた。そのため、このメタファーをトランス身体に適用することは、身体化を語る言説において同種の暴力を反復してしまう危険を孕む。さらにそれは、「理想的な身体へ到達すべきである」という規範的な意識や圧力を再生産しかねない。したがって、トランス*身体化を語る時に、身体とそれをめぐる様々な経験や情動をなるべく制限しないような考え方が必要であるという旨の指摘でる。最後の結論の章「Making and Un-Making Bodies」において、ハルバスタムは『LEGOムービー』(2014年)を手がかりに、「トランス*・アーキテクチャー」(trans* architecture)について考察を行っている。LEGOの世界は「恒常的なトランジション」の世界であり、ボックスから出る指示をみて段階的に作っていくことが可能だが、同時に創造的で無限の建て方の可能性もあるという。ハルバスタムはさらに、上記の「家」の話をより深く掘り下げ、以下のように主張している。
トランスジェンダーの人々の自伝にしばしば見られるように、私たちが身体を「家」として捉えるとき、そこには家庭性(domesticity)、所有、固定性といった、身体をめぐるさまざまな規範的な刻印を引き受けてしまうことになる。だがクロフォードが提案するように、身体を「収容する場所」としての発想から目をそらし、「トランジション」──しかも永続的なトランジション── という概念へと焦点を移すならば、未来が男性でも女性でもなく、トランスジェンダーであるような可能性の地平へと、私たちは身を委ねることができるだろう。(10)
ハルバスタムが建築をめぐってより深い考察を行っているのは、オンラインで発表された論文「Unbuilding Gender: Trans* Anarchitectures In and Beyond the Work of Gordon Matta-Clark」(11)である。この論文では「建築」や「トランス*・アーキテクチャー」という枠組みを超え、ゴードン・マッタ=クラーク(12)のパフォーマンスとそれにおける創造的な破壊という要素を手がかりに理論が展開されている。その主要なポイントは、大雑把にいうと、トランス*身体/化が、恒常的なトランジションや手術、ホルモン剤投与などを通して行われる身体への「カット」(切り込み)やアン/ビルディング(建てる/建て壊す、作る/壊す)の行為を通して、様々な二元論や、規範的な身体の一貫性を取り壊し、それらに「切り込み」を入れるということである。「アナーキテクチャー」という言葉自体は、マッタ=クラークを中心としたアーティスト・グループの名前である。ここではこのグループの活動については深入りせず、マッタ=クラークの作品に焦点を当てる。取り壊し直前もしくは廃墟になっている建築物に穴を開ける〈Conical Intersect〉(1975年)(図1)や、建物に切り込みをいれ文字通り二つに分ける〈Splitting〉(1974年)といったパフォーマンス作品からもわかるように、マッタ=クラークは建築と様々な社会的、経済的な秩序を批判し、それらに抗するアナーキーな挑戦及びアート実践に取り組んでいた。こうしたマッタ=クラークの実践を踏まえた上で、ハルバスタムは上記の論文において次のように述べている。「アナーキテクチャーは、作者の死、建築の死、そしてジェンダー化された語彙の終焉を要請する」と。ハルバスタムはこうしてアナーキテクチャー的な行為とトランス*身体化過程との共通点を明確にしながら、トランス*・アナーキテクチャーという議論を展開している。つまり、トランス*身体性がマッタ=クラークのアナーキテクチャーの実践と似たようなかたちで、ジェンダー化された社会秩序にカットや切り込みを通して揺るぎをもたらすというわけだ。ハルバスタムは、こうした理論を当事者であるアーティストの最近の実践を用いて裏付けている。例えばCassils(13)の作品を分析しながら、そのアナーキテクチャー的な要素(カットを入れ、取り壊すというような行為)を指摘し、トランス*の人々による現代アートの実践にすでにアナーキテクチャーを見出すことができると指摘している。

図1
ゴードン・マッタ=クラーク〈Conical Intersect〉(1975年、本品の印刷は1977年)
出典:Guggenheim Museum, New York.( https://www.guggenheim.org/artwork/5211)
著作権: © 2023 Estate of Gordon Matta-Clark/Artists Rights Society (ARS), New York
2018年のこの文献は、今回の特別講義(図2)と2026年8月出版予定の新刊の前段階とも言えるものだ。講義の中では、ハルバスタムがトランス*・アナーキテクチャーの説明や現代アートの分析に留まらず、現代の建築という制度がそもそもどのような背景を持ち、どのような力関係において成り立っているのか、また、建築、(不動産)資本主義、シスジェンダー規範、白人シス男性の権力とファシズムとの関係性といったことについて議論を展開していた。以下において、ハルバスタムの議論のいくつかを紹介したい。

図2
特別公開講義「Nothing Works: Anarchitecture After Everything」においてゴードン・マッタ=クラークの作品〈Splitting〉について語るジャック・ハルバスタム(写真:東京藝術大学国際芸術創造研究科提供)
まず、現在の不動産資本主義的な社会において新たなヒエラルキーが生まれているという指摘である。それは「略奪」(dispossession)に基づく貸主と借主( “owner” and “renter”)からなるヒエラルキーであり、この関係において貸主が所有する住宅の物質としての価値が、借主が払う家賃を大きく下回るという構造が成り立っていることを強調していた。次に、建築とファシズムとの関係性に触れ、前世紀に活動していた米国の建築家フィリップ・ジョンソン(Philip Johnson)(14)とその政治的表現について論じていた。ジョンソンは、〈ガラスの家〉(1949年)という四方が壁ではなくガラス張りになっている家やその他のガラスを多く使った高層ビルの建築家として有名だが、〈ガラスの家〉に関して、とても不気味な背景があることをハルバスタムの話を聞いて初めて知った。ジョンソンは、ナチスが台頭する頃からドイツに滞在し、ナチスに強い好感を抱いていたようで、帰国後の米国においてもナチス愛好家として右翼政治活動をしていたという。しかも、ナチスと一緒にポーランドに渡り、ナチスによるポーランド侵略を目撃した時に、戦火の下で多数の家屋が同時に燃えていた風景からインスピレーションを受けたようだ。それが〈ガラスの家〉をつくるきっかけになったのだという。〈ガラスの家〉の真ん中に暖炉があるのも、遠くから見ると、そうした戦場の風景をジョンソンに思い出させたためだという。ジョンソンはその後もガラスを多く使った建物を作ったが、それは一軒家のレベルから、現代の不動産資本主義における男根中心主義の象徴といえるような、ガラス張りの高層ビルというかたちになった。ハルバスタムによれば、こうしたファシズムと深い関係性をもつジョンソンの建築デザインが世界中の大都市に建つようになった高層ビルにも共有されているという。このように、ファシズム的な建築史、不動産産業と資本主義の密着関係、ハウジング危機、ジェントリフィケーションの問題をふまえると、マッタ=クラークの〈Splitting〉のような作品は、そのアーティスト・グループの名前が示しているように、かなり「アナーキー」な実践であり、現在の私たちの生活にも響くものである。
最後に、クィア理論とトランス・スタディーズとアナーキテクチャーの接点についての議論をまとめておきたい。ハルバスタムは、マッタ=クラークの作品をそうした学術理論に応用する際の手がかりとして、アフロ・ペシミズムやリー・エーデルマンによるクィア・ネガティヴィティの議論を用いている。エーデルマンによれば、クィア理論が目指すべきは「この世界にうまく適応する方法」を教えることではなく、その枠組み自体を拒み、〈無(nothing)〉を教えることだというが、ハルバスタムは、その議論を、黒人を長らく「無」や「所有物」として位置づけてきた啓蒙的認識論を批判し拒否するアフロ・ペシミズムと結びつけながら、現在の世界を支える啓蒙主義的言説を根本から解体しようとするプロジェクトこそ、トランス*・アナーキテクチャーであるという(15)。また、講義の最後には、こうした理論的枠組みを用いたトランス*のアーティストによる作品の分析もあり、ジェスィー・ダーリング(Jesse Darling)(16)の〈Gravity Road〉(2020年)(図3)をはじめとする作品をあげながら、多くのトランス*のアーティストが廃墟や解体といったテーマを用いて制作活動をしている点を新たな見解として示していた。加えて、前述したように、トランス*身体がカットによってつくられており、ジェンダーをめぐる二元論を取り壊しているという、トランス*・アナーキテクチャーについての議論を結論として強調していた。

図3
ジェスィ・ダーリング〈Gravity Road〉
(出典:Connor, M. (2022, April 29). Jesse Darling. 4Columns. Courtesy Modern Art Oxford. Photo: Ben Westoby. https://4columns.org/connor-michael/jesse-darling)
私はこの講義に参加して、色々と考えさせられたが、ここで少し感想を述べたい。まず、今日私たちが目にしている、イスラエルによるパレスチナの破壊の映像である。爆弾やミサイルで墓地と化し、廃墟になったパレスチナ人が生活していた建物が、ブルドーザーによって壊される映像が連日何度もニュースに取り上げられてきた。同時にまた、人の命と住まいを略奪するだけでは足りないとでもいうかのように、アメリカのトランプ大統領による「トランプ・ガザ」の言説やそれを示唆する動画を、私たちは目にしている。イスラエル国家が、「世界で最もヴィーガン」で、「クィアでも入隊できる」軍を送り(17)、街を破壊し、新たな建築物を建て、資本と入植者が流れ込むように準備をする。この残虐行為について考えるとき、アナーキテクチャーという美学的概念はある意味できわめて重要なものだと思う。とりわけ、ヴァルター・ベンヤミンが論じているようなファシズム的な美学の使用やハルバスタムがあげたような建築とファシズムや権力との関係を考えると、恣意的に破壊や建造を行うイスラエル国家の動きを、建築を利用した戦争として捉えることも可能だろう。これは、パレスチナにおける大量虐殺と欧米における不動産資本主義によって引き起こされた社会問題を同列に並べ、同じ種類の問題として扱うのではなく、破壊することとつくることをフェティッシュ化する装置の暴力性を指摘するためである。私たちがその装置にどのように割れ目や切れ目を入れるかは、未だに模索しているさなかではあるが。
次に、「健常」なシスジェンダーの異性愛者の目からすると一見自由に見えるかもしれない「身体」に課された規律や国家による様々な制限について考える時に、アナーキテクチャーの議論は重要になるだろう。実際のところ、こうした制度や制限に対してトランス*身体性が行っているのは、「取り壊し」と呼びうる実践ではないだろうか。この「取り壊し」は、身体を拘束する制度的な規制を可視化するだけでなく、それらに対する抵抗としても機能する。ハルバスタムが講義で指摘していたように、私たちは本来、複数の生の可能性とその「選択肢」を持っていたはずであるにもかかわらず、実際には単一の選択肢を強いられてきた。もっとも、ここでいう「選択肢」とは、個人が完全な自由意志によって選び取れるものを意味しない。むしろそれは、制度や社会的条件によってあらかじめ制限された、いわば括弧つきの選択肢である。こうした強制的な選択の枠組みは、身体化のプロセスそのものを単一化し、私たちと身体との関係を均質で普遍的なものとして固定化してしまう。その意味で、トランス*身体化は、唯一のものとして与えられてきた選択肢がいかに恣意的で鈍重な規範であったかを暴露する実践となる。遵守すべき掟として提示されてきた単一で均質な生の形式に対し、それは別様の生き方の存在を提示し、神聖視されてきた制度や価値そのものを揺るがす。こうしてトランス*身体化は、「手術のカット」という行為を契機に、安定しているかのように見えるガラス張りの高層ビル──すなわち均衡を保つための動吸振器のような装置──を一つずつ剥ぎ取っていくのである。
最後に、ハルバスタムの議論に出てきたルーカス・クロフォードの議論を踏まえて、トランス*・アナーキテクチャーについて考えたい。クロフォードによると、トランス*性やジェンダーを横断するような性のあり方は常に建築とは切り離せない。というのも、建築は正にトランス*性を抑圧しながら成り立っているからである(18)。建造された空間におけるジェンダー二元論に関する事例をあげれば、トイレ、銭湯、宗教的な場所など枚挙にいとまがないが、クロフォードはそこで建築そのものに問いを投げかけず、「トランスジェンダー・フレンドリー」な空間をつくっても、本格的な変化が得られないという旨の意見を述べている。つまり、すでに抑圧的である空間や制度に、少しだけ改革を施したところで、その空間や制度によるトランス*の人々に対する基礎的な排除がなくなるとは限らない。そこで、上記で繰り返し取り上げた、トランス*身体性が、ジェンダー二元論の上に立(建)つ多種多様な制度のアンビルディング/取り壊しを行うというハルバスタムによる議論を振り返ると、建築におけるジェンダー横断的な性の排除と正面から向き合うことができる。このように考えると、トランス*・アナーキテクチャーとは、単にトランスジェンダー当事者を包摂する「配慮された空間」を設計することではなく、建築そのものが前提としてきたジェンダー秩序や身体規範を根本から問い直す実践であると言える。したがって、トランス*・アナーキテクチャーとは、完成された理想的空間の提示ではなく、トランス*身体との摩擦や不整合を通じて、建築や制度の前提を揺さぶり続ける批評的プロセスとして理解されるべきであろう。
このように、ジャック・ハルバスタムの東京藝術大学における講義を振り返ってきたが、二元化されたジェンダー、拡張主義、生産性優先主義からなる現在の政治的状況下におかれた私たちにとって、ハルバスタムのトランス*・アナーキテクチャーの議論は非常に価値があるものだと思う。新しい本の刊行を待ちながら、クィア・アーカイヴをめぐる私自身の研究においても、建築についてより深く考えていきたい。
注
(1)藝大におけるシンポジウムと特別公開講義に関しては以下を参照。「かつて、あるクィアな時間に/Once Upon a Queer Time」(2025年12月6日)〈ga.geidai.ac.jp/2025/11/19/jack-halberstam/〉、「Nothing Works: Anarchitecture After Everything」(2025年12月5日)
(2)ジャック・ハルバスタム『クィアな時間と場所で トランスジェンダーの身体とサブカルチャーの生』菅野優香・羽生有希・井上絵美子訳、花伝社、2025年(Halberstam, J. (2005). In a queer time and place: Transgender Bodies, subcultural lives. New York University Press)
(3)キアン・ウィリアムズ(Kiyan Williams)はニューヨークを拠点とするアーティスト。詳細は以下を参照。〈www.kiyanwilliams.com〉
(4)「解体の文法」(grammars of unbuilding)はこのエッセイで後出するハルバスタムの論文「Unbuilding Gender」に見られる言葉であり、アーティストのゴードン・マッタ=クラークの作品を分析する時に用いられている。例えば、(後述の)マッタ=クラークが家を二つに切り分ける作品〈Splitting〉では、ある建造物がただ廃墟にされているわけではない。マッタ=クラークが、家庭、市場や民族を守るといったイデオロギーを含む建築的言語から、「文法的」にその建物を「切り外した」とハルバスタムが説明している。「解体の文法」という概念を用いたキアン・ウィリアムズの作品と解説に関しては以下を参照。〈www.kiyanwilliams.com/a-crack-beneath-the-weight〉
(5)Halberstam, J. (to be published in August 2026). Anarchitecture After Everything: A Trans Manifesto.
(6)Halberstam, J. (2018a). Trans*: A quick and quirky account of gender variability. University of California Press.
(7)Halberstam, J. (2018a), p.4.
(8)Crawford, L. C. (2010). “Breaking Ground on a Theory of Transgender Architecture,” Seattle Journal for Social Justice, 8(2).
(9)ここでクロフォードが英語において身体を「家」に例えるような表現、特に「Feeling at home in one’s own skin」について主張している。これは、自分の身体や外見、アイデンティティを無理なく受け入れ、違和感や緊張を覚えることなく『これが自分だ』と感じられている状態、つまり自分の身体が家のように楽で心地よく感じられる状態を意味する。
(10)Halberstam, J. (2018a), p.131.
(11)Halberstam, J. (2018b).“Unbuilding Gender,”Places Journal. https://doi.org/10.22269/181003
(12)ゴードン・マッタ=クラーク(Gordon Matta-Clark、 1943-1978年)は、1970年代にニューヨークを拠点に活動したアーティスト。建物を切断するなどの建築的(正確には、アナーキテクチャー的)介入を行い、芸術のジャンルの境界を横断した急進的な実践で知られる。マッタ=クラークは、アーティスト・グループ「Anarchitecture」の中心的なメンバーでもあった。
(13)Cassilsの公式ホームページには以下のように記載されている。「Cassilsは、ロサンゼルスを拠点に活動するカナダ出身のトランスジェンダー・アーティスト。自らの身体を素材として、また同時に主人公として用いるパフォーマンスを制作している。Cassilsの作品は、LGBTQI+に対する暴力や、LGBTQI+の表象、その様々な闘争、そしてエンパワメントの歴史を主題にしている」〈www.cassils.net/cassils-about-the-artist〉
(14)フィリップ・ジョンソン(Philip Johnson、 1906〜2005年)は、アメリカ合衆国で活動していた有名な建築家。1979年に「人類および環境に対して、継続的かつ重要な貢献を行ってきた人物」という名義でプリツカー賞受賞。1930年代にナチスと強い関わりを持ち、極右政治運動を行っていた。
(15)Edelman, L. (2023). Bad Education: Why Wueer Theory Teaches Us Nothing. Duke University Press.
(16)ジェスィ・ダーリング(Jesse Darling)はイギリスで活動しているアーティスト。 その実践は、身体的主体(bodily subjects)が社会的・政治的影響のもとでどのように形成され、また継続的に再編成されていくのかを考察するものである。詳細は以下を参照。
(17)イスラエルにおいて、ヴィーガン運動や性的少数者の権利運動がどのように排外主義、反パレスチナ思想や民族主義などと絡み合ってきたかについては、を以下を参照されたい。
保井啓志『権利の名のもとに イスラエルにおける性的少数者の権利と動物の権利』東京大学出版会、2025年
(18)Crawford, L. C. (2010), p. 516.


