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この世に墓でない土地はなく── 『ザ・ゴースト・プロジェクト 2024』を終えて

更新日:4月6日

2024年度、研究室の最後のエッセイとして、貴重な誌面をいただくことになりました。博士課程のチョ・ヘスです。私は毎日、短くても日記をつけようと心がけていますが、毎年どうしても乗り越えられない困難があります。最も生きている瞬間には、そのことにあまりにも集中していて、何も記録を残せないということです。たいていは、展覧会を作っている最中にそうなります。この文章で語ろうとしている2024年の「ザ・ゴースト・プロジェクト」も、私の日記には痕跡を残していません。企画が本格的に具体化し始めた2024年の夏から12月にかけて、日記帳は長く沈黙します。このエッセイは、遺体があるのかさえ分からない盛り上がった地面を手探りするように、空白のページを見つめながら綴ったものです。


昨年、私は東京藝大のGAの学生たちを中心に、「ザ・ゴースト・プロジェクト(the ghost project)」というプラットフォームを立ち上げ、二つの企画に参加しました。一つ目は《現代百物語(100 monogatari)》という企画で、人々が順番に一つずつ蝋燭の火を消しながら怖い話を語り、百話目が終わって辺りが真っ暗になると「何かが起こる」という、日本の「百物語」をモチーフにしています。この形式をもとに、99人のクリエイターに新たなゴーストストーリーの制作を依頼しました。この物語は、現代社会において不可視化されている他者たちを「ゴースト」として可視化することができるように書かれたものです。99のテキストはすべて日本語・英語・韓国語に翻訳されており、ホームページ上にて無料でご覧いただけます。

 

the ghost projectのホームページ(https://theghostproject.com/about/)© the ghost project
the ghost projectのホームページ(https://theghostproject.com/about/)© the ghost project

二つ目の企画は《百鬼夜行 100 kiyakou》です。これは、99番目の「現代百物語」が終わったあとに現れる100番目のゴーストのために開かれたパーティーでした。韓国のアーティスト・コレクティブ「koldsleep」を招き、パーティーに招待されたすべての参加者が「100番目のゴースト」となって演じる、参加型の演劇作品でした。招待状を受け取った人々は、同封されていた「ゴースト調査書」を記入し、ハロウィンの翌日である11月1日、松戸にある「パラダイス・エア」に集まりました。


 100番目のゴーストとなる参加者たちに送付された招待状とゴースト調査書。各自が記入したゴースト調査書をもとに、参加型演劇が展開された。© the ghost project, koldsleep
 100番目のゴーストとなる参加者たちに送付された招待状とゴースト調査書。各自が記入したゴースト調査書をもとに、参加型演劇が展開された。© the ghost project, koldsleep

一時間にわたって行われたこの演劇は、各国の葬儀で用いられる料理が並ぶディナーテーブル、匿名での会話、そして会場各所で行われるゴースト・インタビューで構成されました。会場では、参加者が物語を語る/聞かせるゴーストたち(パフォーマー)と、声の「振動」を録音するという作業が行われました。


  パーティー会場の様子 © the ghost project, Yongha James Hwang
  パーティー会場の様子 © the ghost project, Yongha James Hwang

このプロジェクトに取り組む中で、多くの悩みや出来事がありました。それらはすでに私たち自身の手で埋め、墓と化してしまったものたちです。すべての創造的な行為は、成果が現れるまでに無数の未公開なプロセスを経ています。それをいかに自然に、巧みに隠すかが、完成度や技術の領域でもあります。自分らでレビューを書くという行為は、ときに棺の蓋を開け、腐敗した遺体を目にするようなことで、決して容易な作業ではないと感じることがあります。一般的に、キュレーター、アーティスト、リサーチャーを含むすべてのアートワーカーは、よくできた成果物だけを見せたいと願うものです。まるで異世界のもののようにオーラを放つ「マスターピース」の背後にある影のようなプロセスは、幽霊のように姿を潜めています。


けれど、今回の文章ではむしろ、そうした裏側の話をしてみようと思います。なぜなら、その現実への問いこそが、ザ・ゴースト・プロジェクトのもう一つの出発点でもあったからです。


2024年、日本でも韓国映画『破墓(パミョ)』が公開されました。「破墓」とは、墓を掘り返して遺体を取り出すことを意味します。多くの場合、それは過ちを正すためや、他の場所に改葬するために行われます。たいていは、埋葬された人のためというよりは、その墓の位置が良くないことで子孫に悪い運命をもたらすと信じられる場合に、残された人々のために行われるのです。このエッセイは、「ゴースト・プロジェクト2024」の破墓となるかもしれません。書くためにはまず、その墓の位置の悪さを見つけ、認めなければなりません。たやすいことではありませんが、次なる葬儀人(リサーチャー)あるいは墓守(キュレーター)のために、一度やってみようと思います。


心を隠す場所をつくることは、もしかするとすべての芸術が行う建築なのかもしれません。その建築行為そのもの、プロジェクトをつくる人々が見せようとしたもの、逆に見せずに隠して埋めてしまったもの、失敗したこと、あるいはその外にある――私たちが属しているアートシーンそのものについて、少しでも添えることができればと思います。


【ゴーストはどこにいるのか:あらゆる場所に、アートの内にも外にも】

《現代百物語》の使用説明書(theghostproject.com/guide-jp)には、次のような一文が記されています。「『怖さ』とは何でしょうか?」こんな一文もあります。「恐怖の対象は、社会の中心から排除された者たちの変容した姿であったり、私たちが永遠に関わることのできない他者として描かれたりしています。」こうした発想がプロジェクトへとつながるまでには、いくつもの好奇心と対話の軌跡がありました。


第一に、私と周囲の人々が抱いてきたフェミニズムやジェンダーへの関心が出発点となりました。その中でも、清水研究室のもう一人の学生であるSHUと「魔女」について雑談していた際に生まれた、「アジアにおける“魔女のような存在”はどのように表象されてきたのか?」という問いが、大きな方向性を示してくれました。第二に、「展覧会」という近代的な形式が抱える限界と、パーティーという形式が生み出す水平的な関係の可能性について、友人たちとよく語り合ったことがありました。最後に、私自身が抱えてきたゴーストに対する親しみと負い目がありました。


アジアの多くの地域では、死者がゴーストになると信じられています。かつて、私の愛する幾人かは生きながらにして死に近しく、死に引き寄せられていきました。彼らは今もどこかでゴーストとして存在しているのかもしれません。私は、彼らがいつかゴーストとして現れたときに、私がそれに気づかず、恐れてしまうのではないかと、ずっと怖れていました。「非人間」「ポスト・ヒューマン」といった言葉を、大学院に来てからよく使うようになりましたが、そういった言葉で修飾される以前から、彼らはずっとここにいたのです。


藝大上野キャンパスのすぐ近くには、大きい霊園があります。私はときどき日暮里駅で降りて、その墓地の中を横切って大学へ向かいます。その道を歩きながら、よく考えることがあります。人類の歴史を振り返ると、人は幾度となく生まれ、死に、他者を弔ってきました。少なくとも、この地球上で生きてきたすべての者が、死んで土に、海に、自然に還っていったのだとすれば、この世界に墓ではない土地は存在せず、私たちは皆、遺体の上に立って生きているのだという結論に至るのです。私は、リサーチャーやキュレーター、アーティストが世の中について語る存在であるならば、彼らは必ずこの「死体たち」について語らざるを得ないと思っています。


私たちは2024年、あまり弔われなかった存在、あるいはより弔われた存在があるという事実について考えながら、生者と死者の両方のための場所をつくりました。99人のアーティストが99の物語を綴り、人々はゴーストたちのためのパーティーに参加するために集まってくれました。99のテキストは、現在も(そしてこれからも)無料で公開・配布される予定です。


《現代百物語》というフォーマットは、ケアの感受性を内包した「一次テキスト」(すべての物語の基礎となる素材、出発点となるテキスト)が、社会に著しく欠けているという問題意識から出発した企画でもあります。誰でも、この物語たちをうわさ話や伝説のように広めていくことができるのです。


【プロダクションにアナーキズムは可能か】

まるで死んだように生きている人たちは、私たちの周りにもたくさんいます。アートシーンの内側にも、外側にも。《現代百物語》を誰一人として完全に「所有」していないという点から、さらに一歩進めて、「ザ・ゴースト・プロジェクト」というチーム(あるいはプラットフォーム)もまた、少数による独断や所有によって動くことのないようにしたい――そんな裏話をご紹介したいと思います。


2024年のプロジェクトがどんなかたちになったとしても、「制作プロダクションにおいてアナーキズムは可能か?」という問いへの実践的な試みをしてみたいと考えていました。ある企画が現実のかたちを取り始めるとき、プロダクションの内外にはさまざまな権力が作用します。


外部からの力については、皆さんもよくご存じかと思います。実現に必要なお金の有無とその出所との関係、「支援を受けるにふさわしい価値がある」ことを証明するために貼り付けるあらゆる修飾語(学歴、経歴、専門的な業界用語)、そしてペーパーワーク(内容よりも様式が重視される)、会場一つ確保するにも延々と挟まる価値判断(アート界で“認められている”あるいは“認められうる”場所かどうか)、業界の政治(関係者に好印象を与えるための努力、セルフプロモーション、取材対応)……。どれも、ゴーストのために通るにはあまりにも「人間的」なプロセスです。


しかし、制作の多くの過程において、チームの内部でさえ誰かが「ゴースト化」してしまうことはよくありました。私は、そうした状況に疲れていました。職場内ハラスメントで告発された上司たち(今までに一人や二人ではありませんでしたが、すべてのケースで姿を消したのは告発した側でした)、肩書によって声の強さが変わるヒエラルキー、空気を読みすぎておかしなことに時間と労力を費やす運営の仕方……。そして何より、「より重要な仕事をする人」と「あまり重要でない仕事をする人」の区別は、「より弔われるゴースト」と「それほど弔われないゴースト」のような、切ない格差を生んでいました。そのような落差に疲れて、共に働いてきた少なくない仲間たちがアートシーンを去っていきました。


最初にザ・ゴースト・プロジェクトの共同企画を計画した私たちは、誰かが「一緒にやりたい」と言ってくれたなら、両手を広げて歓迎し、プロジェクトの終盤までお互いの役割を固定せず、それぞれが自分にできる範囲で役割を見つけ、誰もが自由にアイデアを出し合い、話し合い、それらに平等に耳を傾けるような制作環境をつくろうと努めてきました。そして……ザ・ゴースト・プロジェクトも、こうした目標の多くにおいて失敗しました。私が「代表」という名前でこの文章を書いていること自体が、その証拠です。ザ・ゴースト・プロジェクトの実現過程で感じたジレンマや気づきは、ほとんどがこうした場所にありました。プロジェクトの公式な紹介からは伺い知れない、墓の中の話です。


2024年4月8日の日記。日本語に訳すと、内容は次の通り。

「4月8日。新学期初日。SHUとゴースト企画を全面的に修正した。(…)SHUと『We are the Ghost!』展を準備しながら感じていたもやもやについて、正直に話した。私たちが対話の中で考えたこと。(忘れないように書いておく)① “anyone, everyone”が参加できるということは、“no one”になることとは違うはず。 ② 「展示 exhibition」という形式である必要があるのか?今の時点で私たちが最も自然にできるかたちであるなら、ゼロ(zero)に戻してもいい。 ③ このプロジェクトが、それぞれ個人の未来へとつながるかたちでなければならない。お互いの共通領域を探すことにばかり気を取られて、中途半端な「仕事」をつくってはいけない。 ④ 役割のヒエラルキー(組織体制)は、それ自体が即ち“上下関係”ではない。組織内の位置づけを内面化するところに問題が生じる。各自が最も得意とすることをし、お互いの仕事をリスペクトすることが大切。私以外に展示やプロダクションの経験がある人がいないなら、その人たちに合った新しい構造を考える必要がある。→ 私たちが出した結論。展示フォーマットは使わず、ZINEのかたちをとる? ただしその出版は当初の予定通りの期日に設定。10/31のパーティーでのパフォーマンス・デザイン要。」


(当然ながら)私たちはそれぞれ異なる関心や能力を持っており、何よりも、私たち自身が慣れ親しんできたシステムの中で調整される環境にあまりにも慣れすぎているため、何度も試行錯誤を重ねても、プロジェクトは繰り返し原点に戻ってしまいました。結局のところ、誰かが最終的なアイデアを出し、決断をし、進行を担わなければ、次の段階(「人間的」な業務の段階)へと進むことができなかったのです。《現代百物語》というメイン企画が決定したあとも、それぞれが持つ人脈や語学力を活かせる範囲は異なっており、これまでの人生で積み重ねてきた経験値も当然異なっていました。翻訳だけでも、99のテキスト×3言語で、公式に完成させなければならない成果物が297件。しばらくはこの作業だけで手いっぱいだった記憶があります。進行のスピードについていけない人たちは、ただ罪悪感ばかりを抱えることになりました。誰も悪くないのに、反省会だけが毎日のように続きました。


お互いを理解しながら、自発的に役割を見つけていくことも、「ゴースト・プロジェクト」の重要な要素のひとつだった。
お互いを理解しながら、自発的に役割を見つけていくことも、「ゴースト・プロジェクト」の重要な要素のひとつだった。

私は、プロダクションにおける「ヒエラルキー」ではなく、チームの全員が「友人」になれるような環境であれば、多くの内部的な問題を自律的に解決できるのではないかと考えていました。そうした前提のもとであれば、学校は最適な場所であるはずでした。しかし、共同作業において、個人が考える目的やモチベーションは、関係性とはまた別に、それぞれ異ならざるを得ません。ザ・ゴースト・プロジェクト2024は、そうした点において、お互いがお互いから学ぶ作業でもありました。


誰しも1日24時間を生きていますが、その24時間はすべての人に同じかたちで適用されているわけではありません。誰かは生計を担っており、人生の優先順位も人それぞれです。私たちが本当に平等で、ケアのある社会を目指すのであれば、そうした違いも内部で受け入れ、調整していける必要がありました。


初期段階だった3月初旬、ブレインストーミングの中で皆の意見を交換しようと一緒に描いたマインドマップ。しかし、ある段階からはまったく進展がなかった。
初期段階だった3月初旬、ブレインストーミングの中で皆の意見を交換しようと一緒に描いたマインドマップ。しかし、ある段階からはまったく進展がなかった。

そうした環境の中で、「作品の“完成度”というものも、ある特定の集団が共有している浅はかな趣味や幻想にすぎないのではないか」と疑う瞬間もありました。私たちの答えは、「そもそも自分たちは何を目指していたのか」という原点にできる限り集中することだけでした。


プロダクションの終盤に差しかかり、どのようなかたちであれ、各自が「自分」として存在できるようにした試みこそが、《百鬼夜行》でもあったのです。本作はkoldsleepのディレクションのもとで構成されましたが、これまで彼らが手がけてきた作品とは、大きく異なっていました。koldsleepは、プロの俳優やダンサーではなく、企画チームのメンバー一人ひとりをパフォーマーとして起用することを決意し、ザ・ゴースト・プロジェクト2024のメンバーたちは、この演劇のなかでそれぞれの「ゴースト」として存在し、かけがえのない俳優となりました。


《百鬼夜行》のアーカイブ記録映像もまた、主観的な視点から撮影されています。こうした記録の方法は、それぞれが異なるものを経験する時空間において「客観」が可能なのか、というkoldsleepの問いかけでもあります。詩人であり映像作家でもあるYongha James Hwangが記録した《100 kiyakou and Three Stories》は、ゴーストたちのまわりを影のように漂いながら詩を朗読します。(映像:https://theghostproject.com/100kiyakou-archive/


そろそろこのエッセイを締めくくりたいと思います。ミシェル・フーコーは『ヘテロトピア』において、あらゆる場所のなかで「絶対的に異なる場所」について語っています。既存の場所を中和し、浄化するために設けられた場所たち、反=空間。すべての場所の外にある現実の場所。それらの空間は、他のすべての空間への「異議申し立て」として存在します。


私たちが日常のなかで(同時に日常の外で)つくりだす異空間もまた、そうした役割を担うのでしょう。


99の文字による共同墓地・現代百物語、屋根のない蒼ざめたホーム(Home)、聞き取れない声の振動、沈黙する日記帳……。


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