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この夏、DIYとオレンジ——「不和のアート:芸術と民主主義 vol. 3」を振り返る

「目ェ、覚めた?」という変な声が聞こえ、私の目は確かに覚めた。「二度寝はダメェー」という音声が流れると、それは先日研究室のCさんからもらった羊の目覚まし時計の音だとわかった。この目覚まし時計は1時間に3回くらい、不規則な間隔で3秒ほどの短いセリフを発するものだが、その音声の消し方を調べるのになかなか手がつかなかった昨日の私は、「遊んでメェー」などの突然な声に毎回びっくりしながら、深夜3時までニュースを見ていたのだ。睡眠時間が4時間弱になってしまった私は羊さんのアドバイスを無視して二度寝をするつもりだったが、昨日の不安の気持ちが蘇ってきて、やはりスマホのニュースアプリを開いて、参院選の開票結果を確認することにした。目の前のスマホの画面がぼやけていて——というより、ぼやけていたのは私の目の方だ。考えてみると頭が回らない私なんかより、朝から元気な声で喋っている羊さんの方が立派な「生き物」だった——ようやく焦点が合うと、最初に見えてきたのは、オレンジ色の文字で書かれた「14」という数字だった。深夜までニュースを見ていたゆえに状況を大体把握していた私はこの数字を見て驚かないはずだったが、やはり朝起きると昨日のことが現実ではなく、私にとっては悪い夢で、羊さんにとっては一時的なバグであったらいいなという気持ちも多少あった。「キャン・アイ・ヘルプ・ユー?」と、ポストヒューマン的で多文化主義的な存在でもある<目覚まし時計 歌うヒツジ ランダム音声機能 8RDA49RH05GA>さんが私の様子を聞いてくれて——私は答えてあげたかったが、この方と対話するというのはポストヒューマン理論からすると非常に先駆的な実践でありながらも、やはり友人などからは理解が得られないだろうと思い、やめた——私は一旦スマホを置いて、歯を磨くことにした。


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2025年6月13日から6月15日にかけて東京藝術大学陳列館で行われた展覧会「不和のアート:芸術と民主主義 vol. 3」では、私と毛利嘉孝研究室の佐藤小百合さんが「不和の文字」というコーナーを企画した。「不和」(“dissent”あるいは哲学者のジャック・ランシエールのいう“dissensus”[1])というのは、異議や不賛成のことであるが、今回の「不和の文字」コーナーでは、さまざまな権威や差別の形態に異議を唱える書籍やZINEを展示し、来場者が立ち読みできる場を作ることとなった。


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壁に棚をつけたり、マスキングテープで文字を作ったりするときに特に意識したのは、「頑張りすぎないこと」だった。(頑張りたくないという気持ちが全くなかったとは断言できないが、)この方針を採用したのは、DIYの理念を強く意識したからである。最悪なものでも綺麗になっている昨今、適当なものや雑なもの、とにかく意味が伝わるから大丈夫だろうというものを私たちはもっと見たいと思ったのだ。


「不和の文字」コーナーで展示したZINEの中には、私が本学のコピー機でこっそり作ったものから、100ページ以上の豪華な紙で綺麗なカバーで多数の執筆者の文章を集めて印刷所に依頼して作られたものまで、多様なものがあった。しかし、ISBNやJANコードがないこと、どこかの出版社の会議室で承認され実行された企画ではないこと、そしてその刊行がおそらく——失礼なのかもしれないが——さほどの利益を伴わないことが、その共通点であった。


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企画書には、私たちはSNSのアルゴリズムに支配されている、というようなことを書き——この上から目線の文言に傷つく方もいるかもしれないが、1日の平均スマホ利用時間が7時間13分の私も実はSNSによる支配の当事者である——印刷メディアの可能性を訴えた。「ハイパーメディア化された消費文化の娯楽=管理回路」(これは現代の情報の流れをADHDに喩えたマーク・フィッシャーの言葉[2]だが、今回の展示に向けて作成したZINE『不和を起こす元気なんてない僕と散歩と』の中には私がこの喩えに激怒する段落もあり、その言葉をここで引用するのはどうかとも思ったが、やはり響きがかっこよく引用せずにはいられなかった)や絶え間なく更新されるコンテンツに対抗するためには、紙という媒体が有力であると考えたのである。


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このような印刷メディアの実践の素晴らしさを来場者に見せびらかし帰っていただくことは何かと申し訳なく感じられたこともあり、3日間にわたるZINEワークショップを行うことになった。初日の来場者には質問を付箋に書いてもらい、翌日には質問リストを展示し2日目の来場者から回答を集め、3日目には質問と答えをまとめたZINEを展示した。『コミュニケーションの不和/不和のコミュニケーション』というZINEは、断片化された、効率の悪い、付箋と寝不足の私を媒介としたコミュニケーションの結果だった。質問になっていない質問や答えになっていない答え、水分補給の必要性を訴える話から上野公園の権力性の話まで、なかなか綺麗にまとまらなかった付箋のメッセージからなるこのZINEは、「娯楽=管理回路」(何回読んでもかっこいい表現だ)に接続されている私たちの関心のばらまきを象徴しながら、「同じ空間にいるがお互いを知らない」という孤立の状態を「お互いを知らないが同じ空間にいる」という建設的な実感(あるいは出発点)に変化させる試みでもあった。


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「不和のアート」展が最終日を迎えた6月15日、長い一日を終え帰宅した私の郵便受けには、オレンジ色のチラシが入っていた。


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半世紀前、オレンジジュースの広告に出演しオレンジ産業の象徴的存在となった米国の歌手アニタ・ブライアントが行った、フロリダ州の同性愛差別禁止条例の撤廃を求めるキャンペーン。1977年、オレンジジュースを使ったカクテルをメニューから外した全米のゲイバー[3]。


先週、コンビニでオレンジジュースのラベルを確認し、原産地がイスラエルだと気づき、ジュースを商品棚に戻した私の友人。


参院選開票日の深夜4時、「とりあえずオレンジの服は捨てます」というメッセージを送ってくれた学部時代の友達。


私は子供の頃からオレンジが好きだったが、もしかしたら、オレンジというのは、歴史的に見て、マイノリティ側にとって、常に複雑なものだったのかもしれない、と思った。


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今年の夏、好きなものが複雑なものになってしまったという話は、私の——そしておそらく愛媛県の多くの方の——オレンジとの向き合い方の話だけではない。DIYをなんとなくいい感じのものだと思いこのウェブサイトのプロフィールページにも関心テーマの一つとして「DIY文化」を載せている私にとって、政党名の英語表記を“Party of Do It Yourself”とし、「DIYタイムズ」という機関誌を発行しながら排外主義的な言説を拡散する政党の「躍進」は、かなり悩ましい問題である(とはいえ東京藝大の構成員だけを見ても、『はじめてのDIY』という本を書いている本学のある教員の方が、私なんかより遥かに大変だろう)。


私たちは、DIYに過度に楽観的な眼差しを向けてきたのだろうか。YourselfでItをDoするという、民主主義の原理を想起させる響きの良いこの言葉を日本語にしてみると「自分でやれ」という、極めて不快でもはや暴力的な響きのある表現になってしまうことも偶然ではないだろう。確かに個人を主体とするDIYは、必ずしも新自由主義と相容れないものではないことは事実である。さらにイギリスの文化研究者アンジェラ・マクロビーは、新自由主義時代においてZINEを含むサブカルチャーが「専門化され、美学化され、制度化され」、プレカリアス(不安定)な「クリエイティブ経済」に取り込まれていると述べている[4]。DIY自体は、ポスト福祉社会や緊縮政策、自由放任主義や自己責任論に根本的に矛盾するわけではないのである。


差別や排外主義についても同じことが言えるのではないだろうか。というのも、事実に基づかないデマをゼロから作り、マイノリティを敵にでっち上げる行為は、非常にクリエイティブで、ある意味「DIY」的な実践であるからだ。


それではDIYに期待してきた私たちはどうすれば良いのだろうか。この問題の解決をDIYに歴史的に込められてきた「理念」に求めることは可能だろう。しかし——そもそも歴史を苦手とする昨今の言説空間ではこのような議論は通じないことはさておき——ZINEと同様に、DIYも、日本ではほとんどの場合その歴史から切り離された形で実践されており、「正しい」DIYの理念を主張することには限界がある。権威への懐疑的な眼差しこそがDIYの魅力であるならば、DIYを定義しようとすることは間違った方向性である。とはいえ、DIYを空虚なシニフィアンとして放棄することも建設的な戦略とは思えない。


今の私たちにできることは、脱政治化されたDIYの美学に対して明確な意味づけを積極的に行うこと、そして——「DIYはみんなのもの」という、下品なほど当たり前な紋切り型表現は避けておきたいが——マイノリティの排除を許さない常識を醸成し、この新しい規範をDIYの実践に適用することだ。大量の新品TシャツよりSoundCloudの排外主義ディス曲[5]の方が、均質的な想像の共同体より創造と協働の場の方が、権威的な存在(例えば「皆さんのお母さん」)の提供より開かれたコミュニティの形成の方が、私からすると遥かにDIY的だ。今は想像もできないような仲間と一緒に何かをする未来を思い描き、他者の声に耳を傾けることが、私たちがこれからも取り組み続けなければならない課題なのではないだろうか。


羊の目覚まし時計の音声は、今日は消さないでおこう。


[1] Jacques Rancière, La Mésentente: Politique et philosophie, Galilée, 1995. (ジャック・ランシエール『不和あるいは了解なき了解——政治の哲学は可能か』松葉祥一・大森秀臣・藤江成夫訳、インスクリプト、二〇〇五年)

Jacques Rancière, Dissensus: On Politics and Aesthetics, Steve Corcoran ed., tr., Continuum, 2010.

[2] Mark Fisher, Capitalist Realism: Is There No Alternative? , Zero Books, 2009.(マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』河南瑠莉/セバスチャン・ブロイ訳、堀之内出版、二〇一八年、七〇頁)

[3] Alexandra Chasin, Selling Out: The Gay and Lesbian Movement Goes to Market, St. Martin’s Press, 2000.

[4] Angela McRobbie, Be Creative, Polity, 2016.(アンジェラ・マクロビー『クリエイティブであれ——新しい文化産業とジェンダー』田中東子・中條千春・竹﨑一真・中村香住訳、花伝社、二〇二三年、七六頁)

[5] 例えば以下を参照。

春ねむり「IGMF」

J-Rawr「Prove Them Wrong (Anti-Racism Freestyle)」


 
 

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