ASAP 2024年韓国——Modu Art Theaterを訪ねて
- Yuriko MURAKI
- 2024年11月7日
- 読了時間: 6分
9月下旬のこと、ASAP(Arts Study Abroad Program)に参加しました。GAのメンバーと共にK-Arts(Korea National University of Arts)の学生とワークショップを開催し、各自、英語で研究発表をしました。その後に光州、釜山ビエンナーレへ行ってきたのです。そしてソウル滞在期間中には、昨年10月にオープンしたばかりの「Modu Art Theater」へも行きました。Modu=モドゥとは、韓国語で「みんなの」と言う意味で、障害のある人もない人も“一緒に”という意味込めて作られている劇場です。
自身の研究テーマの1つでもある「ケア」の視点から、以前よりこの劇場に興味があり、今回GAのメンバーと共に訪問しました。障害学について考える時、インペアメント(身体の欠損等による個人の機能的制限)とディスアビリティ(社会的制約による活動の制限)は区分して定義され、障害の原因は個人の機能障害にあるとし、個人への介入によって治療しようとする「医学モデル」と、障害者を社会活動から排除し、生きづらくしているのは個人の問題ではなく、社会のしくみや構造であるとする「社会モデル」が議論されてきました。けれども、二分することで浮き彫りにされる問題が生じてしまうこと、インペアメントを有する者が直面する障壁が個人ではなく、社会環境が障害をつくり出してしまう危うさに疑問を持っていました。どちらか一方ではなく、身体的、感情的、そして環境的な要因も合わせて全体的にとらえることを可能にするアクセスが重要になってくるのではないかと思い訪問につながりました。障害のある人が来訪できる劇場というと、エレベーターや手すり等が整備されているという物理的なアクセシビリティをイメージしますが、Moduは、障害者自身の感情的なアクセシビリティの実現にも開かれているのが特徴です。滞在中は、残念なことに演目の上演はありませんでしたが、偶然にも手話劇団の俳優さんや、劇場の方に施設を案内して頂く機会にも恵まれました。

(著者撮影)
障害を持つ人が自由に観る側にアクセスできるだけでなく、彼ら自身が演じ、作る創作活動にアクセスできるのがこの劇場の特徴です。手話を使っての短いストーリー(3分程度)の動画が十数個公開されていたのですが、動画にはそれぞれテーマがあり、「ライオンとネズミ」「雨の日の運転」など題目がつけられています。描写は全て手話のみで構成。にもかかわらず、動画を観ると実際音は全く出ていないのに、まるで音が聞こえてくるかのようで、躍動感に溢れています。そこにないはずの音を身体で感じることが出来た瞬間が度々ありました。それは、「観る」のでなく、頭の中で音を想像して「感じる」のが正確な感覚であると伝えているかのような体験でした。
また、手話ラップの映像作品にも出会い、スクリーンを通じて音のないラップの世界を体験しました。身体に響き渡るリズムは、ただ単に言語を手話に置き換えるのではなく、内から溢れでくる衝動やリズムを、身体を通して表現しているようでした。それは「聞こえない」人と「聞こえている」人の境界線を超え、世界を一体化させるようなものに感じました。

(著者撮影)

手話を通して感じる「聞こえない」人の世界が、時に音のある世界に生きている「聞こえる」自分の世界よりもリアルに届くのです。手話俳優の方が「以前は、聞こえない人を聞こえる様にするために声を発する練習などが治療の1つとしてなされていた。けれども、それは、聞こえる側がいる世界を基準にしたことであり、決してスタンダートではない」とおっしゃっていたのが印象的でした。手話映像をよりリアルに感じることができるのは、観ている私たちが想像力と身体の感覚を使って映像を観ているからではないでしょうか。
また物理的なアクセシビリティについても考えさせられることがありました。Moduはビルにあるのですが、エレベーターで上がると目の前に劇場の受付があり、車椅子利用の方のために、受付台の位置が低く、座ったまま受付できるように奥行きも深く作られていました。そこには点字ブロックも敷かれおり、「みんなの」ために用意されたものであることがよく分かります。
同様にトイレも、車椅子、小さな子供連れ、点字利用の方々もアクセス可能なかたちで工夫されていました。また、劇場内に入るためのスロープも十分な距離が保たれ、設置されている手すりも握った時にひんやりとすることなく、温もりを感じられるように木製にする等、工夫されており配慮が多々ありました。運良く公演の練習の様子を見学することが出来たのですが、車椅子の観客には最前列にスペースを設けているとのことでした。(※韓国では、この劇場だけでなくて、車椅子利用の人は最前列というのが常識だそうです。)
このように一見すると、全ての配慮が行き届いているようなのですが、劇場の方曰く、点字ブロックを利用する方と車椅子利用の方の受付を同じ場所にしてしまうと、凸凹して車いすがスムーズにアクセス出来ないという課題もあるとのことでした。「みんな」をカバーするのは決して容易ではないということを改めて思い知りました。とはいえ、だからこそ考え続けることが必要なのだろうとも。劇場の方も「今後は来館者の方のフィードバックを参考にして改善していく予定」とおっしゃっていたのが強く心に残っています。


(著者撮影)
今回のModu Art Theaterの訪問を通して、障害者は物理的なアクセシビリティの解決に注目されることが多く、感情、欲望を満たすことへのアクセスが見落とされてしまいがちなのではないかと、問題点に気づくこともできました。
また、物理的なアクセシビリティについて、健常者が一方的に考えるだけでは限界があることについても考えさせられました。実際、「移動」という観点から見ても、当然のことながら障害の違いによって身体的・心理的負荷は大きく違ってきます。こうした課題を解決するために当事者の意見を柔軟に反映させていくことが大切なのでしょう。
障害のある方も社会のなかで思い通りに移動ができ、また社会のシステムの構造的な至らなさゆえに我慢することなく主体的に行動できるようなアーキテクチャについて深く考える機会になりました。政治学者のジョアン・トロントは著書『ケアリング・デモクラシー』のなかで、従来のケアの力関係の不均衡さを指摘し、ケアを「私たちが可能な限りよく生きていく為に必要な活動」と定義しています。そして、トロントの「共にケアすること」(caring with)が重要であり、ケアが単なる一方的な行為でなく、障害者自身もケアプロセスに参加することで、社会全体で共有する必要性があるのではないでしょうか。
システム、制度、施設整備など、障害のある人が望む、満たされるように、健常者からの視点で考えた配慮を押し付けるのではなく、障害のある方が主体となって評価し、改善する関わり合い方が必要なのだと考えます。
今回は、公演を見ることが出来ませんでしたが、次回の訪韓の際は是非、公演も観たいと思います。そして今回ASAPに参加し、様々作品や研究テーマに触れる事で幅広い精神性や文化を探求する機会に恵まれ、この貴重な経験を今後の研究に活かしたいと思います。


